名古屋 戦時中の生徒製作証言 「女学校で風船爆弾」{東京新聞 TOKYO WEB}

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名古屋 戦時中の生徒製作証言 「女学校で風船爆弾
2012年12月21日 夕刊
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 戦時中に旧日本軍が偏西風に乗せて焼夷弾(しょういだん)などの爆弾を米国まで飛ばした風船爆弾椙山女学園高校(名古屋市千種区)の放送部生徒十六人が、当時、実際に学内で作った先輩の証言を集め、ラジオ作品を制作している。学園史などのわずかな記録が頼りだったが、研究者の協力を得て秘密扱いだった作業の様子を聞き取った。 (中村禎一郎)

 今月十四日、放送部長で二年の岡地里紗さん(17)ら十人が学校で、名古屋市北区の井上寛子さん(82)と堀井須美子さん(82)=当時二年、守山区の徳田百合子さん(81)=同一年=にマイクを向けた。

 「秘密兵器を作るって説明されたのよ」。三人は記憶の扉を開けた。当時の教師の説明は「これができれば戦争に勝てる」「作業をすることは家族にも絶対言わないように」だったという。

 風船爆弾作りが学内で始まったのは一九四四年十二月。翌年三月まで、一、二年生の百二十人ほどが携わった。体育館と屋内プールを覆った床の上に集まり、空気が入らないように和紙を三重に張り重ね、半球形に作り上げた。

 「国のためという思いだったわ」。共通の思いだが、今は「勝てるはずのない戦いだったのに…」と複雑な気持ちをのぞかせる。岡地さんは「風船爆弾がどんなふうに作られていたのか疑問がかなり解けた」と話す。

 放送部は二年前にも、風船爆弾作りをテーマにした作品に取り組んだ。証言者にたどりつけず、学内での製造に深く迫ることはできなかった。

 風船爆弾を長く調べてきた椙山女学園大付属小の元校長中村太貴生さん(68)が後押ししてくれた。中村さんは今年二月、住所が分かる四四年度の一、二年生計百人に質問書を郵送。二十二人から「気球(風船)作りをした」との証言を得た。

 それまで中村さんに、爆弾作りを認めた当時の女学生は一人だけ。「そんな話は聞いたことがない」と答える人が多かった。かん口令が敷かれていたかもしれず、調査対象を広げるため、同窓会にも協力してもらった。

 放送部の岡地さんらは別に八月から、先輩が果たせなかった証言にたどりつこうと、続編の構想を練り準備を進めていた。中村さんの調査進展の知らせもあり、当時の女学生から証言を録音することができた。

 作品は来年五月までに仕上げる。岡地さんは「一所懸命に大きな爆弾作りをしたという当時の学校生活に驚いた。かん口令がどう敷かれたかなどを伝えたい」。中村さんも「証言できる人が年々少なくなる中、生徒動員の実態を少しでも正確に記録できれば」と話している。

 <風船爆弾> 旧日本軍の兵器。和紙製の直径10メートルの風船部分に水素を入れて上空1万メートルに上げ、偏西風に乗せて爆発物計35キロを米国まで75時間かけて飛ばした。放たれた9000個のうち361個が米本土に到達。米国側の犠牲者はオレゴン州でピクニック中に落ちていた気球に触れて爆死した6人。明治大平和教育登戸研究所資料館によると、戦時中は全国の軍需施設や学校で風船爆弾が製造されたが、詳しい施設数は分かっていない。
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