{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (4)仕組まれた「わな」 <東京新聞>

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日米同盟と原発

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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (4)仕組まれた「わな」
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000260.html
▼全文転載

平和を隠れみの

 

 1953(昭和28)年12月8日、米ニューヨークで開かれた国連総会。この年の1月に就任した米大統領アイゼンハワー(63)が世界を揺るがす歴史的な演説を行った。

 

 「核による軍備増強の流れを逆に向かわせられれば、もっとも破壊的な力が、人類に恩恵をもたらすようになる。平和利用は夢ではない」

 

 核保有国が持つ天然ウランや核分裂性物質などを国際社会が共同管理する画期的な提案だった。世界は米国自ら核の独占を放棄し、原子力の平和利用を目的に核技術を提供すると受け止めた。米メディアは「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」とたたえた。

 

 しかし、それはとても平和と呼べるものではなかった。米国が従来の核戦略を180度転換したのは、ソ連に対する軍事上の理由にすぎない。

 

 国連総会の4カ月ほど前の53年8月、ソ連は内陸部のセミパラチンスク実験場で水爆実験に成功した。米国が太平洋のエニウェトク環礁で世界初の水 爆実験を行ってからわずか9カ月だった。原爆の成功が米国の4年遅れだったのに比べ、ソ連の核開発能力は格段にスピードアップしていた。

 

 ソ連の水爆実験成功から1カ月後、米国の原子力政策を担う原子力委員会(AEC)の委員長ストローズは米軍幹部の情報を大統領にメモで伝えてい る。カンザス州のアイゼンハワー大統領図書館にあるそのメモは「私たちには蓄積があるが、ソ連は急速な発展を遂げている」などと記されていた。

 

 ソ連は核兵器だけでなく、発電用として51年9月、モスクワ郊外のオブニンスクで原発建設に着手。その原発技術を中国やチェコスロバキア、ポーランドなど同じ共産主義国へ提供する原子力外交を仕掛けており、米国は核独占の優位性が崩れつつあった。

 

 「アトムズ・フォー・ピース」演説の1カ月ほど前、米国は「ニュールック」と呼ばれる新たな大量報復戦略を決定している。原爆などの核兵器を「最 終兵器」から「通常兵器」に転換する軍拡路線だった。当時の国家安全保障会議(NSC)の文書には「戦争時には、ほかの武器と同じように核兵器も使えるも のとみなす」などと記述されている。

 

 アイゼンハワーは大統領在任中、就任時に1000発だった核兵器をその20倍以上の2万2000発に増やしている。「アトムズ・フォー・ピース」 の本当の狙いは平和利用の名の下に原子力技術を積極的に提供することで、世界の核アレルギーを和らげ、大量の核配備を進めることだった。

 

 アイゼンハワー大統領図書館に保管されている国防総省の心理作戦コンサルタント、ステファン・ポッソニー(39)が52年10月にまとめた報告 書。「原子力が平和と繁栄をもたらす建設的な目的に使われれば、原子爆弾も受け入れられやすくなるだろう」との助言が記されていた。

 

 それから半年ほどの53年3月末にワシントンで開かれたNSCの特別会合。極秘メモによると、この中で、大統領と国務長官ダレス(65)は「核兵 器使用に対するタブーを壊さなければならないという意見で一致した」。ダレスは「今の国際世論を考えると原爆は使えないが、この世論を打ち消すためにあら ゆる努力をすべきだ」と述べたという。

 

 世界を駆けめぐった原子力の夢。それは米国が冷戦下で仕組んだ「わな」でもあった。しかし、その夢にすがるように日本の政界は慌ただしく動きだす。米国が広島、長崎に原爆を投下してから8年の歳月が流れていた。

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