【高木桂一の『ここだけ』の話】たった24日で国会議員になった男{zakzak}

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【高木桂一の『ここだけ』の話】たった24日で国会議員になった男
2013.01.15
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▼全文引用

 【高木桂一の『ここだけ』の話】

 この世には、どれだけ国会議員になりたいと長年頑張っても、なれない人がいれば、もともと国会議員になりたい気持ちがなかったのに、あっさりなってしまう人もいる。自民党の圧勝に終わった昨年暮れの衆院選で、壊滅的敗北を喫した民主党で新人候補53人のうち唯一当選した寺島義幸衆院議員(59)=長野3区=は後者の方だ。まさに青天の霹靂(へきれき)で出馬が決まってから当選するまで24日間。人間万事塞翁(さいおう)が馬とはいえ、選挙とは時に“弾み”で人の運命をガラリと変えてしまうものなのだ。

 ■超短期決戦

 寺島氏は衆院解散で政界を引退した羽田孜元首相(77)の後継者として出馬し、みんなの党新人の井出庸生氏、自民党新人の木内均氏らに競り勝った。寺島氏にとっては、息つく暇もないほどの「超短期決戦」だった。

 羽田元首相が平成22年9月、次期衆院選に出馬せず政界を引退する意向を表明した後、羽田氏の後援会「千曲会」は、元首相の後継者として、長男で民主党参院議員の雄一郎前国土交通相(45)=参院長野県区=を擁立することを既定路線として準備を進めた。雄一郎氏も参院からの鞍替え出馬する腹を固めていた。

 これは表向き、現職国会議員の親族が同一選挙区から立候補することを禁止する民主党の「世襲制限」の内規に抵触するものだった。しかし羽田氏サイドは、参院当選3回に加え、閣僚も経験した雄一郎氏は、自民党世襲候補で定番となっている「国会議員としての経験、実績もなく、単に地盤を引き継いで出馬する世襲候補者」とは根本的に異なるとして鞍替え出馬の正当性を主張し、党側と綱引きを繰り広げてきた。

 ■土壇場で「本命」撤退

 そこで野田佳彦前首相は昨年11月16日の衆院解散後、「『脱世襲』の方針を貫く」と宣言した。野田氏には自民党との違いを鮮明にする狙いがあった。

 それでも雄一郎氏は一時、無所属でも出馬する道を模索したが、最終的に苦渋の決断で「脱世襲」を受け入れた。雄一郎氏が参院からの鞍替え出馬「断念」の記者会見を参院議員会館で開いたのは、同月20日のことだった。

 長野3区をめぐる元首相の後継レースは、当初から地元で本命視されていた雄一郎氏が土壇場で撤退したため、振り出しに戻った。後継を確定すべき12月4日の公示まで残された時間は約2週間だった。

 すぐさま後継候補は元首相の後援会「千曲会」の主導で、元首相の公設秘書で首相秘書官も務めた北沢英男氏、長野県長和町長の羽田健一郎氏、元首相の秘書経験のある長野県議の寺島氏ーの3人に絞られた。だが決定までは電光石火だった。

 ■「死ぬ気で頑張ってくれ!」

 関係者によると、羽田長和町長は町長を辞めれば町民に迷惑をかけるため固辞し、北沢氏も健康問題を理由に出馬を断った。このため瞬く間に寺島氏一本に絞られた。打ち明けるのは元首相周辺だ。

 「雄一郎氏の鞍替え断念の記者会見の最中、長野県佐久市内で北沢氏が羽田元首相の名代として寺島氏と会い『一緒に戦おう』と説得した。そこで寺島氏も腹を固めた」(元首相)

 これを受け「千曲会」の正副会長会は11月21日、寺島氏に出馬要請することを全会一致で決定した。寺島氏は翌22日に元首相を東京・成城の自宅にたずね、羽田元首相に出馬の報告し了解をとった。

 「死ぬ気で頑張ってくれ!」

 そう激励した羽田氏は、「お守り」として、かつて登院した際に国会で用いていた「羽田孜」の名札を寺島氏に手渡した。

 寺島氏は23日に佐久市内のホテルで記者会見して正式に出馬を表明し、党本部からの公認も得た。雄一郎氏の鞍替え断念記者会見からわずか「中2日」で、「寺島候補」が名実ともに誕生したのだ。

 寺島氏は昭和28年、長野県立科町の農家に生まれた。54年、成城大学経済学部を卒業し、民間企業に9年間勤務。62年から平成3年にかけて羽田元首相の秘書を務めた後、同年4月、長野県議会議員選挙に無所属で立候補し、初当選。県議は6期目で、議長も歴任した。

 ■「無欲」の男

 出馬表明の記者会見で寺島氏は、「薫陶を受けた孜先生の志を引き継ぐ」と決意を表明したが、その数日前まで自身がまさか国政選挙に出馬する日が来るとは思っていなかった。選挙戦で訴える政策についても「短期間で(出馬を)決断したので、細かな政策はできていない」と述べた。

 「無欲の男だからこそ元首相の後継者になれた」と語るのは、寺島氏に近い関係者だ。

 同関係者は、国政転身に一時揺れた寺島氏の背中をこう押したという。

 「あなたが自分から、いっちょう国会議員をやってやろうかと欲をもっていたら、俺たちは分不相応だとして相手にしなかった。今回は神様があなたの前に降りてきて『寺島、出番だよ』と声をかけてくれた。こういう機会だったんだ」

 しかし、寺島氏は衆院選出馬が決まるまで民主党歴もなく、入党手続きや選挙ポスター、ビラの作成…と突貫工事の連続だった。

 旧長野2区時代から元首相の父・武嗣郎氏、孜氏と半世紀も続いた「羽田王国」を死守しなければならないプレッシャーも大きかった。

 ■「私も共に戦う」

 公示日の12月4日、羽田元首相は寺島氏の出陣式にこんなメッセージを寄せた。

 「私も彼の心に己の魂のすべてを宿し、この思い尽きるまで、ともに戦って参ります。力を尽くし、心を尽くし、最後まで全力で頑張りましょう」

 手探りのまま短時間で迎えた同月16日の投開票日。選挙戦の「出遅れ」は響いた。しかし得票数は前回選の羽田元首相の約13万8600票からほぼ半減させたものの、戦いが三つどもえとなったことで票が割れて大接戦となり、これを制することができた。

 初当選を受け、寺島氏は「時間がない中で千曲会、各種団体、仲間の県議、すべての皆様にスピーディーに取り組んでいただいたことが結果につながった」と喜びを語った。

 前回143人の新人を大量当選させた民主党にあって寺島氏は「たった1年生議員」となったが、同党への大逆風のなかで勝利できたのも、盤石だった「羽田王国」の後継者としてのアドバンテージも大きかっただろう。

 ■「世襲議員」を超えられるか

 「羽田先生の長年培ってきた地盤と、歴史の重みを実感している。うれしいというより、よかったという思いだ」。寺島氏は元首相から受け継いだ国会議員バッジの“重み”をこう強調するが、いつまでも「よかった」と浮かれている余裕はないはずだ。

 緊急避難的”に代議士となった寺島氏の真価がこれから問われるが、荒波を乗り越えた民主党唯一の新人議員が、自民党の定番といえる「世襲議員」を凌駕する“実力”を発揮しなければ、同党の再建はおぼつかないだろう。まずはお手並みを拝見である。(政治部編集委員)

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