{日米同盟と原発}第7回「油の一滴は血の一滴」 (1)米の濃縮ウラン大量購入<東京新聞>
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【特集・連載】日米同盟と原発
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第7回「油の一滴は血の一滴」 (1)米の濃縮ウラン大量購入
2013年3月26日
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▼全文転載
一九七三(昭和四十八)年十月、資源小国の日本は石油ショックに襲われる。首相田中角栄(一九一八~九三年)は世界第二位の経済大国になったジャ パンマネーを武器に、海外からエネルギー源を買いあさる資源外交を展開。国内では電源三法交付金制度を創設し、原発立地に国が関与する推進体制を築いた。 地域振興を名目に、巨額の税金が立地自治体へ流れ込む原発の利益誘導システムは福島第一原発事故後、批判を浴びる。「今太閤(たいこう)」ともてはやされ た権力の頂から一転、ロッキード事件で裁かれた田中。原発とつながる、その金脈と人脈を探る。 (文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
◆訪中前の手土産
1972年8月31日(日本時間9月1日)、ハワイで開かれた田中首相(左)とニクソン米大統領の日米首脳会談=AP |
首相就任からわずか二カ月足らず。田中にとって最大の目的は二十日余り後に迫った中国との国交正常化交渉に向けた地ならしだった。当時、首相秘書 官だった現在八十五歳の元フランス大使、木内昭胤(あきたね)は「ニクソンに仁義を切り、訪中前に対米関係を良くする必要があった」と証言する。
東アジアで冷戦構造の枠組みが再構築され、日本も中国との関係改善に乗り出す必要性に迫られた。日本にすれば、ニクソンとの首脳会談は米国にそのお伺いを立てるための儀式。だが、米国には別の思惑があった。
ハワイ会談の一カ月ほど前。七月二十五日から四日間、下準備として神奈川・箱根で開かれた日米の事務レベル協議。米国が重視したのは対中外交ではなく、通商問題だった。戦後一貫して主従関係にあった日米同盟。ところが、その力関係は転機を迎えていた。
「エコノミック・ミラクル(経済的な奇跡)」と呼ばれる高度成長を遂げた日本。六八年には国民総生産(GNP)で西ドイツ(当時)を抜き、米国に 次ぐ世界第二位の経済大国に躍り出た。安くて品質の良い日本製の自動車やカラーテレビは国際市場を席巻し、とりわけ最大の貿易相手国、米国でシェア(市場 占有率)を伸ばしていた。
逆に米国は対日貿易赤字が拡大。七一年には赤字額が過去最大の三十億ドル(当時の約一兆円)以上に膨らんだ。日本製品流入による米産業界への打撃と貿易収支の悪化は長引く不況の一因。かつての「敗戦国」日本は今や「貿易敵国」として米国の前に立ちはだかっていた。
日米最大の懸案事項に浮上した貿易摩擦。米国は日本に対米輸入の拡大を迫り、その具体策を一カ月後に控えたハワイの日米首脳会談で求めていた。田中にとって、それはニクソンから日中国交正常化交渉のお墨付きを得るための、いわば「手土産」でもあった。
通商産業省(現・経済産業省)の元事務次官で当時、首相秘書官を務めた現在八十二歳の小長啓一は「田中さんは『アメリカが困っているんだから助けてやろう』と言っていた。各省庁の事務方が米国から買えるものを探し、積み上げていった」と振り返る。
米国の要求をのむ形で日本は購入額を増やし続けた。日本の対米輸入額は当初よりほぼ倍の総額十一億ドルに膨らむ大盤振る舞いとなった。この時、購入の目玉となった三億二千万ドルの米国製民間航空機は後に田中自身が裁かれるロッキード事件の引き金となる。
その航空機と金額で肩を並べたのが米国産濃縮ウラン。原発の核燃料として電力会社が購入するもので、一万トンもの量だった。
一万トンの経緯について、当時、対米交渉にあたった通産省公益事業課長補佐で、現在七十七歳の見学信敬は当初、五千トンだったことを明かした上 で、こう証言する。「大臣から『ウランをもっと買ってほしい』という話があった。東電や関電などにお願いして購入量を倍に増やした」
外交史料館にある外務省の七二年七月二十九日付会談メモ。田中が官邸を訪れた米通商交渉特別代表エバリーに「航空機、ウランの買い付けを話し合うのは結構であろう」と語った、と記されていた。
日米中をめぐる外交交渉で突如浮上した米国産濃縮ウランの大量購入。秘書官だった小長は「確かに当時の発電能力からすると多めだったかもしれない」と認めた上で、こう言う。「対米関係を重視する政策判断だった」
田中角栄(たなか・かくえい) 1918(大正7)年5月4日、新潟県二田村(現・柏崎市西山町)生まれ。二田尋常高等小学校を卒業後、土木作業に従事。20歳で徴兵検査に合格して満州(中国東北部)に派遣されるが、肺炎を患い除隊となる。
終戦後、46年の衆院選に旧新潟3区から立候補するが落選。翌47年の衆院選で初当選して以降、16回連続当選を果たす。57年、郵政相(現・総 務相)として初入閣後、蔵相(現・財務相)や自民党幹事長などの主要ポストを歴任した。 72年7月、佐藤栄作政権の後を継ぎ、第64代首相。高等小学校 卒の就任に「今太閤」「庶民宰相」などと呼ばれた。就任直前に発表した「日本列島改造論」はベストセラーとなった。
74年10月、月刊誌文芸春秋の特集記事「田中角栄研究-その金脈と人脈」をきっかけに金権政治を批判され、その2カ月後に退陣。76年、米航空 機製造大手ロッキード社の全日空への航空機「トライスター」の売り込みに絡む贈収賄事件(ロッキード事件)で、5億円の賄賂を受け取った受託収賄罪などで 東京地検特捜部に逮捕、起訴された。裁判では無罪を主張したが、一審、二審とも有罪。最高裁上告中の93年に死去した。
首相退任後も自民党田中派の議員に強い影響力を保ち続け「(目白の)闇将軍」の異名を取った。選挙地盤を受け継いだ長女・真紀子は外相や文部科学相を務めたが、2012年12月の衆院選で落選した。
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