{日米同盟と原発}原発を核武装潜在力に 64年に首相ブレーン報告書<東京新聞>

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日米同盟と原発
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原発核武装潜在力に 64年に首相ブレーン報告書
2013年2月26日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602100009.html
▼全文転載

 佐藤栄作首相のブレーンで、沖縄返還交渉の密使を務めた国際政治学者の若泉敬氏(故人)が、1964(昭和39)年に中国が核実験に成功した直 後、その対応策として核兵器に転用可能な原子力技術を高めるべきだとする報告書をまとめていたことが分かった。首相直属の内閣調査室(内調、現・内閣情報 調査室)に提出され、佐藤政権下で核保有をめぐる水面下の政策論議につながった。

若泉氏が1964年12月に内閣調査室の依頼で作成した報告書「中共の核実験と日本の安全保障」

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 若泉氏は報告書で、日本が非核政策を維持しながら、核武装の潜在能力を持つべきだと主張。核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という佐藤首相が唱えた67年の「非核三原則」にも影響を与えた可能性が高い。

 報告書は当時、内調の調査主幹を務めていた志垣民郎さん(90)=東京都世田谷区=が保管していた。

 本紙が入手したその報告書は「中共の核実験と日本の安全保障」のタイトル。内調への提出は、中国(中共)の核実験から2カ月後の64年12月2日付。

 冷戦下、中国が核保有国入りしたことは日本の安全保障の新たな脅威とされたが、報告書はその影響は防衛面よりも「心理的、政治的なものである」と指摘。「わが国はあくまでも自ら核武装はしないという国是を貫くべきだ」とした。

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 ただ「何時(いつ)でもやれるのだという潜在的な能力」を持つ必要があるとし「原子力の平和利用に大いに力をそそぐと共に、他方では日本が国産の ロケットによって日本の人工衛星を打ち上げる計画を優先的に検討するよう提案したい」とし、原発建設や宇宙開発に取り組むよう提言していた。

 佐藤政権下の核保有論議では、内調のまとめた2部構成の「日本の核政策に関する基礎的研究」(1968、70年)や外務省の「わが国の外交政策大綱」(69年)が極秘報告書として作成されていたことが分かっている。

 いずれも憲法9条日米安全保障条約との関係から、日本の核保有に否定的だが「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(潜在能力)を常に保持する」(外交政策大綱)などと指摘していた。

 若泉報告は、これら報告書より数年も早く、志垣さんは「大いに影響を受けた」と話している。

  

◆核政策動機記す

 日米関係史に詳しい名古屋大の春名幹男客員教授(ジャーナリズム論)の話

 若泉氏は佐藤首相のブレーンとして、現在も日本の基本政策である「核政策4本柱」(非核3原則の厳守、核軍縮、米の核抑止力依存、原子力の平和利 用)を起草し、首相が1968年1月に国会で初めて表明した。今回見つかった報告書にはこの4本柱の動機が鮮やかに記されている。若泉氏は当時30代の若 さで、日本の核政策の針路を形成したことになる。

◆現実主義の視点

 「若泉敬と日米密約」などの著書がある日本大の信夫(しのぶ)隆司教授(政治学)の話

 若泉氏についての研究は多いが、中国の核実験直後にこうした報告書を作成していたことは知られていない。原子力技術を軍事利用と結び付ける視点は 現実主義者の若泉氏ならではだろう。この原発と軍事の関係こそ、福島第1原発事故後の現在も政治が原発ゼロを進めることのできない隠された理由になってい る。

 若泉敬(わかいずみ・けい) 1930年、福井県生まれ。防衛庁(現防衛省)防衛研究所の研究員を経て、京都産業大教授となり、67年ごろから佐 藤栄作首相の密使として外務省とは別ルートでの対米交渉を担当。「緊急時に米軍が核兵器を持ち込める」という密約と引き換えに、72年の沖縄返還の実現を 導いた。94年に自著「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で核密約の存在を暴露し、沖縄への謝罪の念を書き記した。96年死去。

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