{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (5)「原爆製造は可能」<東京新聞>
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日米同盟と原発
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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (5)「原爆製造は可能」
2013年2月26日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000219.html
▼全文転載
核兵器保有の可能性について、内閣調査室や関連機関が作成していた報告書=志垣さん所有 |
カナマロ会発足
きっかけは隣の中国。東京五輪が開かれていた六四年十月十六日、毛沢東(70)率いる中国は原爆実験に成功し、米ソ英仏に次ぐ五番目の核保有国になった。
当時、内調の調査主幹で、現在九十歳の志垣民郎は「中国の核実験が起きて大変な危機感を持った。学者の意見を聞くうちに核を持てるかの検討だけでもしてみようということになった」と、そのいきさつを振り返る。
内調の研究会は六八年一月に正式発足。中心となったのは東京工業大教授の垣花秀武(47)と永井陽之助(43)、上智大教授の前田寿(49)とろう山道雄(39)。四人の頭文字を取って「カナマロ会」と名付けられた。
カナマロ会は東京・六本木の国際文化会館で定期的に会合を重ねた。外部講師として、国際政治に詳しい京都大助教授の高坂正尭(33)や旧海軍出身の軍事評論家関野英夫(57)、日本原子力発電の技術者今井隆吉(38)らも加わった。
志垣の手元には当時の極秘資料が多数保管されている。
報告書はカナマロ会が誕生する前の六四年十二月に書かれていた。中国の核実験からわずか二カ月後の早さだった。若泉は後に首相佐藤のブレーンとして、沖縄返還交渉の密使を務めている。
その報告書は「わが国はあくまでも自ら核武装はしない国是を貫くべきである」としながらも「十分その能力はあるが、自らの信念に従ってやらないだけ」という意思を国内外に示す必要がある、と提言している。
能力がありながら、やらないだけ-。それは、非核政策をとりながら、核兵器に転用可能な技術を温存する「潜在的な核保有国」を目指すとの主張だった。報告書は、そのための具体的な方策として、原発の建設やロケット開発などに取り組むべきだとした。
世界唯一の被爆国でありながら戦後、原発建設へと踏み出した日本。核の悲劇を繰り返すまいと、原子力の平和利用を信じた国民の知らないところで、政権を支えるブレーンらは原発と核兵器を結びつける議論をひそかに進めていた。
カナマロ会は六八年と七〇年に検討結果を二冊の極秘報告書「日本の核政策に関する基礎的研究」にまとめた。非公開の報告書は、わずか二百部しか印刷されず、内閣官房や省庁幹部、自民党議員など限られた人間にしか配られなかった。
内閣調査室の調査主幹だった志垣によると、報告書は当時の内調室長を通じて、首相の佐藤の手にも渡った。志垣は「室長は技術的に製造可能だと強調して報告したが、首相から『核武装はなかなか難しいんだよ』とたしなめられたと聞いた」と話す。
佐藤は、報告書ができる前の六七年十二月、衆院予算委員会で、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を打ち出していた。
一方、内調とは別に外務省も核保有を独自に検討していた。
六八年十一月二十日付の外交政策企画委員会議事録には「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」「ロケット技術が発達すれば、原子爆弾さえ開発すれば軍事に利用できるわけだね」など、幹部クラスのやりとりが記されている。
当時、外務省科学課長として議論を仕切った現在八十三歳の元フランス大使、矢田部厚彦は「日米同盟を考えると、当時も今も核武装は現実的ではない」としながらも「可能性のあるふりをすることが抑止力になる。その方法が科学技術を高めることだった」と明かす。
元科技庁次官で、現在八十八歳の伊原義徳は六〇年代初めに、自民党議員がロケット予算について「あれはあれだから、よろしく頼むよ」と話し合うのを耳にした。「核爆弾の搭載手段として期待していたのでしょう」と推察する。
佐藤栄作の長男で、現在八十四歳の龍太郎は、佐藤が首相になる前から「ロケット開発の父」と呼ばれた東京大教授糸川英夫(52)と親交が深かったことを明かした上で「おやじにとって科学技術の家庭教師のような存在だった」と証言する。
原発とロケットの開発に取り組むべきだ、と提言した若泉報告からほぼ三十年後の九四年。日本は初の純国産ロケット「H2」の打ち上げに成功する。
この間、原発も猛烈な勢いで列島各地に建設された。二度にわたる石油ショックと、佐藤の後を継いで七二年、首相に就いた田中角栄(54)の登場が引き金だった。その田中は「日本列島改造論」を掲げ、原発を利権化していく。
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