{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (3)念願の原子力閣僚<東京新聞>

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日米同盟と原発
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第5回「毒をもって毒を制す」 (3)念願の原子力閣僚
2013年1月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000233.html
▼全文転載

 

1956年1月4日、発足したばかりの総理府原子力局の看板を掛ける職員

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◆集まる信奉者

 東京・日比谷公園で開かれた原子力平和利用博覧会が大勢の来場者でにぎわった一九五五(昭和三十)年十一月。そこからほぼ一キロ先の永田町では戦後政治をめぐる新たなうねりが生じていた。

 日本民主、自由両党による保守合同で、自由民主党が誕生。その一カ月前には革新勢力の左右両派が日本社会党を結成していた。「五五年体制」と呼ばれるこの政治構造は、米ソ冷戦期を通じて、自民党の長期独裁政権を許し、米国との同盟関係を深めていくことになる。

 自民党結党直後の十一月二十二日に発足した第三次鳩山一郎内閣。正力は念願である原子力担当の大臣ポストを射止めた。

 自著「私の悲願」(六五年発刊)で「鳩山首相が防衛庁(現・防衛省)長官を勧めるので、私は原子力をやると言った。首相はキョトンとして『原子力って、何をするのか』と問い返した」と独特の表現でその喜びを書き記した。

 一回生の陣笠(じんがさ)でありながら、いきなりの大臣抜てき。新聞、テレビのオーナーを務める正力は、警視庁時代に担当した政界工作などで、三木武吉(71)や大野伴睦(65)ら自民党の大物と知り合い、気脈を通じていた。

 正力の議員秘書を務めた現在八十歳の元自民党衆院議員、萩山教厳(きょうごん)は「大臣就任は正力先生に花を持たせるためじゃない。彼なら何とかしてくれると思い、みんなで持ち上げたんです」と証言する。

 実際、大臣就任後、原子力の信奉者らが集まるようになった。萩山によると、後に首相となる若手議員の中曽根康弘(37)は正力を「閣下、閣下」と 呼び、当時、東京・銀座にあった読売新聞本社まで足しげく通っていた。当時、社会党政審会スタッフで、現在八十七歳の後藤茂は、中曽根が「正力さんは私の 言い分を承認して動いてくれた」とうれしそうに話していた、と振り返る。

 発足したばかりの日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)研究員で、後にセイコー電子工業社長を務めた現在八十七歳の原礼之助によると、 正力は産業界の原子力推進団体「日本原子力産業会議」(現・日本原子力産業協会)事務局長の橋本清之助(61)や、物理学者の嵯峨根遼吉(49)らとも近 かった。

 橋本は戦前、A級戦犯容疑者だった元内相後藤文夫(71)の秘書で、戦後は「原子力界の黒幕」と呼ばれた人物。嵯峨根は戦時中、陸軍の原爆製造計 画「ニ号研究」を主導した科学者仁科芳雄の弟子だった。戦後は米バークレー国立研究所に勤務する一方、中曽根に戦後初の原子力予算を計上するよう助言した 「指南役」としても知られる。

 その嵯峨根が当時「運転経験のない国産を造っても誰も買わない。まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と語っていたのを、原は直接聞いている。

 日本は五五年五月、米国産濃縮ウランの受け入れを閣議決定。国内では時間をかけても原子炉を自主開発すべきか、それとも即効性のある海外からの技術導入にすべきかで意見が分かれていた。

 原子力をめぐる日本の針路がまさに岐路に立っていた時、担当大臣に就任したのが正力だった。嵯峨根の言葉は、後に正力の政治判断に少なからぬ影響を与える。

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