{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (3)食卓から魚が消えた <東京新聞>

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日米同盟と原発

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第4回「ビキニの灰」 (3)食卓から魚が消えた 
2012年12月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000200.html

▼全文転載

1954年3月16日、東京・築地市場第五福竜丸が水揚げしたマグロの放射能を測定する専門家ら

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◆被ばく 迫る恐怖

 ビキニ事件が新聞報道で伝えられた翌日の一九五四(昭和二十九)年三月十七日、東京の築地市場では競り値が暴落した。「東京都中央卸売市場史」によると、十七日朝の取引は産地にかかわらずマグロが半値、近海のヒラメや干物の価格まで値を下げた。

 第五福竜丸が水揚げしたメバチマグロやキハダマグロから高濃度の放射能が検出され、他の魚介類全体も敬遠された。

 厚生省(現・厚生労働省)は翌十八日、「入荷する鮮魚は食用として不安がない」との大臣声明を発表。しかし、値崩れは止まらず、築地市場は十九日、競りの中止に追い込まれた。市場がこうむった被害総額は一カ月間で当時の額で一億八千万円(現在の十九億円相当)に達した。

 「原子マグロ」の言葉に代表される風評被害で、全国あちこちの鮮魚店やすし店は休業に追い込まれ、庶民の食卓から刺し身や焼き魚が消えた。

 ビキニ事件の発覚から半月ほどたった五四年四月二日。築地市場で開かれた「買出人水爆対策市場大会」で、東京都内の鮮魚店主ら五百人が怒りの声を上げた。

 米国は第五福竜丸の被ばく後もビキニ環礁で水爆実験を行い、今後も続行する方針だった。会場で「魚屋殺すにゃ三日はいらぬ ビキニ灰降りゃお陀仏(だぶつ)だ」と書いたビラを配り、政府や米大使館に原水爆禁止を求める署名活動を始めた。

 集会を呼び掛けたのは東京・杉並区の鮮魚店「魚健」の主人、菅原健一(48)。菅原の六女で、現在七十歳の竹内ひで子は当時小学六年生。「父が『もう日本の海を汚されるのはごめん。おまえたちの誰も核戦争に巻き込みたくない』と口癖のように話していた」と振り返る。

 戦時中、広島、長崎の原爆で世界唯一の被爆国となり、核の恐怖を身をもって体験した日本。しかし、広島、長崎の被害が爆心地を中心とする限られた 地域だったのに対し、ビキニ事件がクローズアップしたのは「海→魚介類→人体」の食物連鎖を通じて誰もが被ばくするという放射能汚染の深刻さだった。

 政府が五月から実施した調査船「俊鶻(しゅんこつ)丸」の測定で、汚染範囲が幅広い海域に及んでいたことも拍車をかけた。四方を海に囲まれ、日常的に魚を食べる日本人にとり、核実験による海洋汚染は見過ごせない問題となった。

 菅原らの訴えに真っ先に反応したのは、同じ杉並区に住む女性たちだった。子どもの命を守ろうと、母親や若い女性らが駅前や大通りに机を並べて署名集めに協力した。

 戦後間もない当時、女性らの街頭活動は珍しかった。彼女らがガリ版で作った手書きのビラに、活動の様子がつづられている。

 「足が疲れて交番で休ませていただいていると、お巡りさんも快く署名された」「戸別訪問で『署名で水爆はなくならないでしょう』と話す奥さんを説得したら、家族七人全員が署名してくれた」

 杉並の運動は当時、普及台数一千万台を超えたラジオや前年二月に放送を始めたテレビなどのニュースを通じて全国に広まり、八月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が発足。会には日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(47)も参加した。

 第五福竜丸の無線長久保山愛吉の死去からおよそ二週間後の十月五日、署名は被爆地の広島、長崎などを含め全国千二百万人に上った。翌五五年八月に広島で開く第一回原水爆禁止世界大会までには人口の三分の一に相当する約三千万人の署名が集まった。

 米ワシントンの国立公文書館には一連の運動を報じた日本の新聞記事の英訳文が所蔵されている。米陸軍情報部が当時、在日米大使館を通じて収集したものだった。米国は日本の反核運動が反米運動につながることを恐れていた。

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