{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (2)研究再開ののろし <東京新聞>

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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (2)研究再開ののろし
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000258.html
▼全文転載

政治主導で突如

 

 原爆特集を組んだアサヒグラフが出る2カ月前の1952(昭和27)年6月。原子力研究の再開に向けたのろしが上がった。首相吉田茂(73)率いる与党・自由党の若手、前田正男(38)の発言が火元だった。

 

 衆院経済安定委員長も務める前田は科学者の国会といわれる日本学術会議との会合で、科学技術庁(現・文部科学省)の設立を提案する。「総理府の外 局とし、長官には国務大臣をあてる」と概要を説明し「原子力と航空機の研究開発」が目的と明言した。政治主導による原子力研究の再開を意味していた。

 

 占領中、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で中断された日本の原子力研究。戦前は、原爆製造計画「ニ号研究」などで軍部が主導した。戦後になって再開を許されると、今度は政治が表舞台に出てきた。後に科技庁長官や原子力委員長を務める前田の狙いは何だったのか。

 

 奈良県出身の前田は山梨高等工業(現・山梨大工学部)を卒業後、戦前は三井物産の商社マンとして働いた。戦後政界入りし、当時としては数少ない理系出身の国会議員だった。

 

 前田の長女で、現在70歳の酒井浩子は「父は『日本が戦争に負けたのは科学技術が劣っていたから』といつもこぼしていた。戦後復興には科学技術の底上げが欠かせないと考えていたようです」と証言する。

 

 科技庁構想をぶち上げる前年の51年、前田は米政府の招待で渡米している。国防総省の科学技術振興院や、後に世界的な原子炉メーカーとなるゼネラ ル・エレクトリック(GE)の研究施設などを視察した。大蔵省(現・財務省)官僚の大平正芳(41)も一緒だった。大平はこの後政界入りし、首相に上り詰 める。

 

 科技庁構想は米国の意向にもかなっていた。前田は帰国後、52年5月号の「日本産業協議会月報」への寄稿文で、ホワイトハウス高官の発言をこう引用している。

 

 「白亜館の連絡員は『国防省に科学研究振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究と委託研究の有効利用を図っている。このことは米国だけでなく、自由主義国家に推し進めていきたい』と述べた」

 

 前田のおいで、地盤を引き継いだ現在75歳の民主党参院議員の前田武志(元国土交通相)は当時、中学生。米国製のトランジスタラジオを土産にもらった。「すごく刺激を受けたようで、エネルギー源として原子力が必要だと言っていた」と振り返る。

 

 日本は戦後復興が急速に進み、産業用を中心に電力供給が追いつかない状態。都市部などでは停電が頻繁に起こった。欧米の最先端技術を知る経済界の一部からは水力、火力を補う電力源として原子力を利用すべきだ、との意見が出ていた。

 

 ところが、政治主導で原子力研究の再開を目指す前田の提案に、学術会議の科学者らは警戒を強めた。「経済優先・軽武装」を掲げた戦後の吉田内閣は このころ「再軍備」へとかじを切っていた。独立前の対米講和交渉で、自衛隊の前身となる保安隊を52年10月に5万人規模で設けることを米国に約束。前田 の提案は、その保安隊が発足するわずか4カ月前に行われた。

 

 「逆コース」と呼ばれる政策転換の中で、政界から突如として浮上した原子力研究。科学者らは「本当の目的は核兵器の開発ではないか」と疑い、反発 を強めた。戦前の軍部主導による「ニ号研究」で戦争の加担を強いられた苦い教訓もあった。前田の提案を受け、52年10月に開かれた学術会議の総会は大荒 れになった。

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