{日米同盟と原発}第2回「封印された核の恐怖」 (1)死の街ヒロシマ<東京新聞>

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【特集・連載】
日米同盟と原発

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第2回「封印された核の恐怖」 (1)死の街ヒロシマ
2012年9月25日
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▼全文転載

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもち ろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実 態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から 米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)

原爆認めぬ軍部

1945年10月、原爆の爆風で建物が吹き飛び、がれきに変わった広島市中心部。撮影地点は爆心地から120メートル=広島平和記念資料館提供

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 広島の原爆投下から2日後の1945(昭和20)年8月8日。戦時中、陸軍の要請で原爆開発「ニ号研究」を指揮した理化学研究所仁科芳雄(54)は東京・羽田から軍用機で、広島に飛んだ。陸軍中佐、新妻清一(35)ら軍の技術将校も同行した。

 米大統領トルーマンは投下直後、米国民に向けた声明で、世界初の原爆使用を宣言。仁科らは出発前、旧知の記者を通じて、その内容を知らされた。日本の科学技術では到底無理だった原爆開発に、米国は本当に成功したのか。仁科らの任務は現地で、それを確かめることだった。

 広島の上空に差しかかったのは8日夕。低空で2、3周旋回した。窓の下に西日に照った街が広がった。市中心部は焼け果て、2キロ先の家屋まで爆風で壁がえぐられていた。

 ニ号研究で仮定した原爆の威力とほぼ一致するすさまじさだった。広島入りする前、ある程度の覚悟を決めていた仁科ですら、その惨状に息をのんだ。戦後の46年に発行された雑誌「世界」への寄稿文で、仁科は当時の模様をこう振り返っている。「死の街の様相を呈していた」

 仁科は8日のうちに、鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常(43)に電話で報告した。「残念ながら原子爆弾に間違いありません」

 だが、第一人者の仁科が原爆と認めたにもかかわらず、当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした。放射能による被ばくを隠すためだった。投下後も 何十年にもわたり人間を苦しめる原爆。そんな「大量殺りく兵器」で攻撃を受けたことが分かれば、国民はおびえ、戦意を失うのではないか、と恐れた。

 そう思っていたやさきの9日、今度は長崎に原爆が落とされた。

 仁科とともに広島入りした陸軍中佐、新妻ら軍部は翌10日、ひそかに報告書をまとめている。広島の被害状況などから「原子爆弾ナリト認ム」と明記 した上で「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」と、放射能の危険性をはっきり指摘していた。

 草案は新妻が書いた。広島平和記念資料館に保存されている草案には「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」との一文が加えられていた。報告書の存在は戦争が終わるまで公になることはなかった。

 大本営は8月15日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまいだった。

 こうした軍部の対応を科学者、仁科はどう見ていたのか。

 仁科の次男で、現在は80歳の名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)の浩二郎は当時、中学生。玉音放送が流れた15日、広島、長崎の調査を終えて理研に戻った仁科が「『軍人は何度言っても、原爆だと認めようとしなかった。閉口した』と話していた」と証言する。

仁科が原爆直後の現地調査を記録した大学ノート。投下からきのこ雲が上がるまでの様子を記した図が描かれている

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 仁科は8日間の現地調査の間、被ばく危険性が高い爆心地付近にあえて足を運び、鉄の破片や小石を拾い集めた。放射能汚染を調べるサンプルだった。

 被ばくの症状や田んぼの土壌汚染、変死した川魚など科学者の視点で現場を見つめ、大学ノート2冊に手書きした。ノートは原爆直後を知る貴重な資料として、今も仁科記念財団(東京都文京区)に眠っている。

 日本の原爆開発を担った仁科が調査に没頭したのは果たして知的好奇心か、罪滅ぼしか-。生前、誰にも話していないが、次男、浩二郎は「父は死を覚悟していたはず。科学者の責任がそうさせたのだろう」と推測する。

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